書記長日記

九月、東京の路上で

こんにちは、TKDです。

広島では大雨による土石流や土砂崩れで多くの被害が出ています。自分が大学時代を過ごした場所です(大学は当時、街中にありましたが)。死者・行方不明者は40人を超えています。小さな子どもの死、救助作業で2次災害に巻き込まれた消防隊員の死、やりきれない思いです。

9月さて、『九月、東京の路上で』、この題名からどのような本をイメージされますか? しゃれた小説をイメージする方もいるかも。でも、違うのです。副題には「1923年関東大震災ジェノサイドの残響」とあります。帯には「朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」と萩原朔太郎の書き残した言葉が。そう、この本は関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を辿るノンフィクションです。筆者、加藤直樹さんのまえがきは2013年の新大久保の路上から始まります。在特会というレイシスト(民族差別主義者)団体が、在日コリアンに対するヘイトスピーチを繰り返し、筆者はそれに対する抗議行動に参加していた。そして、レイシストたちが掲げるプラカードの中に「不逞朝鮮人」という言葉を見つけ、それと「(朝鮮人を)ぶち殺せ!」というシュプレヒコールが重なったとき、筆者は90年前の朝鮮人虐殺を思い、ぞっとするのです。

普通の人々が、民族差別(レイシズム)に由来する流言につき動かされて、虐殺に手を染めた過去をもつ都市。いつ再び大地震が来てもおかしくない都市。そこで今、かつてと同様に「朝鮮人を皆殺しにしろ」という叫びがまかり通っている。

関東大震災は過去の話ではない。今に直結し、未来に続いている。焦りのような思いから、私は路上でともに行動した仲間たちに呼びかけて、90年前に虐殺があった東京各地を訪ねて写真を撮り、そこで起きたことを当時の証言や記録をもとに伝えるブログを開設することにした。

この本はそのブログをまとめたものです。震災直後から、流言によって、また官憲からの情報によって、自警団が、在郷軍人が、警察が、軍隊が朝鮮人を探し、見つけ、虐殺する様子を見た人の残した言葉が、そしてその跡を訪ねた筆者の想いが書き連ねてあります。平易な言葉で書いてあり、それだけになおさら読むのが辛いのですが、私たちは差別意識を持っているものが災害時の群集心理の中でどのような残虐な行為をしてしまうのか、目を背けずに知っておく必要があると思うのです。何しろ、21世紀の今、ネットという新たな情報空間の中で人間の劣情をまき散らすような言辞が繰り広げられ、差別を煽る週刊誌や書籍が売れるこの日本ですから。

ヘイトスピーチさて、在特会のヘイトスピーチに「売られたけんかは買う」と立ち上がったのは辛淑玉(シンスゴ)さん。宇都宮健児さん、上野千鶴子さん、中沢けいさんら多くの方とともに、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)を立ち上げ、精力的な活動を繰り広げています。その「のりこえネット」が出したのが『ヘイトスピーチってなに? レイシズムってどんなこと?』(七つ森書館)という本。ヘイトスピーチを許せない多くの方が文章を寄せています。その中で、私が一番感銘を受けたのが、東京造形大学教授の前田朗さんの「表現の自由を守るためにはどうすればよいか」。「ヘイトスピーチ」と呼ぶから、禁止すると表現の自由が脅かされる恐れがある、という声が上がる、あれは「ヘイトクライム」なんだから法的にも許してはいけないんだ、という内容に納得しました。前田さんは「憎悪のピラミッド」を紹介します。一番下に「偏見」があり、「偏見による行為」「差別」「暴力行為」と上に向かい、頂点の「ジェノサイド」に達するピラミッドです。ナチスのユダヤ人(に限らず、ロマや障害者も)虐殺、関東大震災の朝鮮人虐殺も、頂点に達した例です。「ヘイトスピーチ」はこのピラミッドの中の一環なのです。

 「スピーチだから表現の自由だ」という時、誰の表現の自由を主張しているのでしょうか。「朝鮮人を殺せと叫ぶ日本人の表現の自由」を主張しているのです。日本社会の人口の九九%が日本人です。この日本社会で、マイノリティの排除や抹殺を叫ぶマジョリティの表現の自由だけが論じられるのは、極めて不健全なことです。

 なぜなら、そこでは真っ先にマイノリティの表現の自由が否定されているのです。九九%の多数を占める日本人が押しかけてきて「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ現場で、圧倒的少数者である朝鮮人は言葉を失い、沈黙を余儀なくされます。下手に言い返せば、もっとひどい被害を受けることは歴然としています。相手を萎縮させる沈黙効果に乗って、マジョリティは差別と脅迫を繰り返し、「差別表現の自由」と叫ぶのです。

 ですから、「表現の自由だからヘイト・スピーチを法規制すべきでない」と述べる憲法学者の主張は、実際には「日本人だけが表現の自由を保障されれば良い。朝鮮人の表現の自由を保障する必要はない」ということなのです。もちろん、憲法学者は「そんなつもりではない」のですが。

表現の自由の名の下に、弱者を深く傷つける行為を許してはいけないと思います。

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