暑い日々が続いている。弱いアタマが、ますますパーになりそうだ。
さて、暑くなくても「パーになっているのではなかろうか?」と疑わせる通達がある。ご承知の方も多いだろうが、「国立大学文系学部廃止」通達である。内田樹によれば、「2014年8月、文部科学省から全国の国立大学へ、『教員養成系、人文社会科学系学部の廃止や転換』が『通達』されたのです。13年6月に閣議決定された『国立大学改革プラン』を受けたものでした」(『プレジデントFamily』15年春号)とのこと。
ここでは、私の友人の「文系」大学教授がアタマに来て、私のために書いてくれた文章を紹介する。やや長くなるがご勘弁を。
文系廃止論の問題点
先般、政府は文科省を介して、国立大学の文系学部、特に教育学部と文学部を廃止、もしくは大幅に縮小する意向を公にした。これは、教養教育を蔑にする暴論と言わざるを得ない。文系学部、特に文学部は、人間が生きることそれ自体にまつわる諸問題を、その根源から問うという役割を担っており、たとえば、哲学は、人生いかに生きるべきかについて深く考えることをめざす学問であある。理系の学生と言えども、人生いかに生きるべきかと考えない者は、おそらく一人としていないであろう。このことを顧慮するならば、哲学の教養なき理系の学生は、すぐれた技術者とはなりえず、単なる職人の類いに止まる恐れがある。また、文学や歴史に関する幅広い教養を持たなければ、いかなる者の人生もけっして豊かなものとはなりえない。そうした幅広くかつ深い教養の担い手としての文学部、そして教育学部を廃止もしくは大幅に縮小しようとする安倍政権の真の狙いは、実は戦争法案と密接な関係にある。かつてアジア・太平洋戦争の折、文系の学生は根こそぎ動員され、異国の山河に無数の屍を曝した。一方理系の学生は、戦争継続に不可欠との理由で動員を免れた。このことからもあきらかなように、戦争をする国、否、より厳密に言えば、これから戦争をしようとしている安倍政権にとって、文系学生はただカネだけがかかる余計な存在にすぎない。さらにいえば、文系学部、特に文学部で養成される「批判精神」は、近い将来に戦争を予定している現政権にとっては、在ってはならない存在でもある。要するに政府は、「愚民化政策」の一環として、戦争をするために、文系学部の廃止もしくは大幅縮小を狙っているという次第であり、大学人としては、頑としてこれに反対しなければならない。ところが、昨今は物言わぬ大学教員が圧倒的多数を占め、当の文学部においてすら、何らの抗議活動も行われていないのが現状である。これは、ゆゆしき事態であり、このまま事態が推移すれば、実際に文学部や教育学部は消えてなくなってしまうかもしれない。今こそ、大学教員が大きな声を上げて、不当な廃止・縮小論に物申すべきときである。なお、小職の勤務先●●大学では、今後5年間に人文社会系(実質的には文学部)の教員を実に20%も削減する予定である。もしこの削減案が実施された場合、人文社会系の教育体制は、完全に瓦解する。現在でも、退職教員の補充ができず、各分野において教育が停滞している現状にある。たとえば、文芸・言語専攻の日本文学コースには上代文学専門の教授が不在であり、学生は、万葉集等の研究ができない状況にある。歴史・人類学専攻でも、古代日本史の専門家が退職したあとに講座が空白となり、日本古代史を学びたい学生は、やむをえず小職のもとに来ているのが現状である。ただでさえも、崩壊の危機にある●●大の人文社会系は、今回公表された政権の方針のもと、まさに壊滅への途を歩んでいるといえよう。かような政権に対する「批判精神」を大切にするためにも、現政権による文系学部の廃止・縮小案には、断固として反対しなければならない。
ご尤も!!さすがは我が友である。
今後、私も、さらに安倍「教育再生」への批判的研究をすすめ、世に訴えたいと思っている(チョイト大袈裟か)。
それにしても、暑い…。少しは何とかならぬものか。