評者は前回、本欄で『新版 きけわだつみのこえ』を紹介した。これを編集した日本戦没学生記念会(わだつみ会)の変遷過程を明らかにし、戦後における「戦争体験の継承」の変遷を明らかにしたのが本書である。
1949年に『きけわだつみのこえ』を編集した第1次わだつみ会に対して、著者は「「戦争体験の伝承」「戦争体験の思想化」を掲げた(当時の、高木)数少ない団体であった」(6頁)と評する。
しかし、この第1次わだつみ会は1958年に解散し、翌59年に第2次わだつみ会が結成される。第2次の性格を著者は「政治運動への過剰な関与を抑制し、戦争体験そのものやそれに根ざした心情に固執しようとする姿勢が浮かび上がっている」(97頁)と述べる。そして、この姿勢を最も貫いた安田武を「頑なに戦争体験の語りがたさにこだわり、わかりやすい形で戦争体験を若い世代に伝えることを拒もうとした」(158頁)と評する。
だが、わだつみ会はさらに変遷する。1969年からは、第3次に移行。この実務を取り仕切ったのが渡辺清である。戦艦武蔵の乗組員であった渡辺は奇跡的に生還し、戦後は、「天皇の戦争責任」の追求に命を傾けた。この渡辺を著者は「渡辺にとって天皇批判とは、自らを指弾されない安逸な場に置いたうえでなすべきものではなく、「天皇をかく信じていた自分をも責めることでなければならな」かった。それは、(中略)「忠節」を尽くした自分自身を問い糾すことでもあったのである」(212頁)と評する。
本書の最後に著者は「戦争体験の戦後史」を、「「戦争体験の断絶」の戦後史であった」(257頁)と断ずる。靖国・遊就館の展示などがその例だ。しかし、私たちは、いま、改めて「戦争体験の継承」に努めたい。安倍首相の唱える「戦争できる国づくり」など、真っ平ご免だからだ。
〈評・高木 哲也〉
中公新書、2009年、840円+税 (15年3月25日)