こんにちは、TKDです。
おかげさまで定期大会が終了しました。ただ、大会が終わった土曜の夜に富山を発ち、日曜日は東京で全教の中央委員会に参加していました。というわけで、書き込みが遅れたわけです(と、言い訳)。
昨年と違って発言が出にくい雰囲気もありましたが、それでも結果的には昨年よりも多くの発言がありました。ただ、いささか土曜授業・学習の話に偏ったようにも思えます。1日目と2日目の発言に、重なっている部分がずいぶんありました。逆に言えば、それだけ土曜授業問題については参加者の理解が深まったとも言えます。また、2日目の討論の時間の後半ではどんどん深みのある意見が出るようになりました。特に、メンタルヘルスのことについて述べられた意見は私も深く共感するものでした。自分の発言の時に、十分に触れられなかったことが悔やまれます。
さて、運動方針案の提起は、その前に来賓2人の挨拶があったこともあり、時間は限られていました。それなりに言いたいことは述べたつもりですが、振り替えると言えなかったこと、言葉足らずだったことなど、後悔しきりです。
提起の最後に、組合の役割として、つながる=孤立させないことに加え、考えることの大切さを、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」の話もしながら訴えました。しかし、その前に言うことがありました。それは、今、ウソがあまりにもはびこっていることです。「汚染水は完全にコントロールされている」もそうですし、集団的自衛権の必要性を訴えるときの例もあり得ない想定や個別自衛権で対応できる事例ばかりです。ネット上では、南京大虐殺や従軍慰安婦について、ウソが溢れています。「在日特権」というウソもまた同様です。まさしくゲッペルスが言ったように「嘘も十分に繰り返せば、人々は信じるようになる」のです。現代は、ネットでのコピペやリツイートなどで、よりウソが拡散し繰り返されやすくなっています。こんな時代だからこそ、考えなければ意識せずにウソで人々をだまそうとする側に協力することになるかもしれない、と言いたかったのですが、やはり言葉足らずでしたね。
前回の書き込みで、長野高教組の大会宣言が伊坂幸太郎の『マリアビートル』の1節で始まっていることを紹介しました。読み返しているのですが、なかなかそれが書いてある部分を発見できません。かわりに次のような1節を見つけたので紹介します。
「世の中にはさ、正しいとされていること、存在しているけど、それが本当に正しいかどうかは分からない。だから、『これが正しいことだよ』と思わせる人が一番強いんだ」
「ほら、たとえば、『アトミック・カフェ』って映画があるでしょ。有名なやつ。核兵器を利用した作戦練習みたいなのが映っていて、核爆発を起こした後で、兵士がそこに歩いて攻めていく、って練習だよ。事前の説明で、兵士たちの前で、リーダーみたいなのが黒板に書きながら、言うんだ。『注意するものは三つだけ。爆発と熱と放射能だ』って。で、『この中で目新しいのは放射能だが、これが一番どうでもいいものだ』って教えてる」
「で、核兵器が爆発して、まだキノコ雲が上がっている場所に向かって、兵士たちは歩き始めるんだよ。いつもと同じ服で。」
「ようするにさ、人というのは、何か説明があれば、それを信じようとするし、偉い人間が自信満々に、『心配はいらない』と言えば、ある程度は納得しちゃうってことだよ」
この作品の中で絶対悪として描かれている中学生の少年「王子」の言葉です。