こんにちは、TKDです。
久しぶりの書き込みになりました。実は、ブログの調子が悪くて、ローマ字入力すると最初の1字がすぐに確定されてしまうのです。例えば、「後藤さん」と打ちたいのに、「g父さん」になったり、「春闘」と打ちたいのに「sユン等」となったり。で、イヤになって書き込みを中断していました。この間、「イスラム国」による日本人人質殺害など重要な事件があったのに。それにしても「イスラム国」という名前は(存在自体もですが)罪づくりです。イスラムという宗教がテロを起こしていると誤解されます。単なるテロリストなのに。イスラム教徒への迫害が起きないことを祈ります。HPの管理会社に連絡したところ、また書き込めるようになりましたので、ようやくこうやって書き込んでいます。
先週の木曜日は朝日新聞に「論壇時評」が載る日でした。フランスの週刊紙へのテロと「イスラム国」のテロがテーマとなっていました。森達也さんのコラムとと高橋源一郎さんの時評が奇しくもシンクロしています。
森さんは、フランスのテロに対して起きたデモで、「表現の自由を守れ」というスローガンに違和感を抱きます。
表現の自由とは、これを抑圧する政治権力やシステムに対して行使すべき概念だ。その表現によって傷つく人がいるならば、無制限に行使されるべきではない。向きがまったく違う。
森さんは、メディアが事件や現象をどうとらえるか、どの視点を選択するかがメディア各社の個性になると言った上で、「でもこのときは世界のほとんどのメディアが、ひとつの視点しか提示しなかった。(中略)理由は想像がつく。掲げられたテーマが『対テロ』であるからだ」と指摘します。そして、
世界中が対テロで一体化しつつある現在だからこそ、メディアは多様な視点を提供しなければならない。たとえ売国や国賊と呼ばれても。
と言い切って、筆を置きます。この「多様な視点」を高橋さんは、森さんのコラムの隣で紹介します。フランスのエマニュエル・トッド氏の言葉です。フランスのテロへの市民の反応について書かれています。
「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける『シャルリー・アブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じない。独りぼっちの気分だ」
このトッド氏の言葉を紹介しているのは、なんと読売新聞(1/12付)です。おもしろいですね。
さて、日本人2人の命が失われた「イスラム国」による犯罪。メディアは、そして私たちは多様な視点を受け入れられるでしょうか。それと、二人の死を悼む気持ちを共存させられるでしょうか。
余談ですが、今日の朝刊の1面、多くは拘束されている後藤さんの写真を大きく使っていましたが、北陸中日新聞はシリアの子どもと一緒に写っている後藤さんの写真を使っていました。編集者の気持ちが感じられました。