書記長日記

考えることの放棄

 

こんにちは、TKDです。

昨日は春闘統一行動で、高岡の地区集会へ。ウイングウイングだからJRで行こうと思い、駅まで歩きもう少しのところでふと、高岡文化ホールだったかな、と考えてしまいました。そうだ、Wウイングは3月の集会会場だったと思い、慌てて職場に戻り、車(R2)に乗って高文へ。この時点で遅刻ぎりぎり状態。高文に着いたが、別の催しがあるばかり。やっぱりWウイングだったと思い、車をとばしたものの遅刻。なにをやってるんだか。JRで行ったら戻ってからまた仕事をしようと思っていましたが、疲れ果てて帰宅することにしました。

今日は名古屋でブロックの会議。しらさぎの切符を買ったものの、電車に乗ってから会議日程をよく見ると、しらさぎでは間に合わない。米原から新幹線に乗り換えても料金は変わらないはずだと思い、車掌さんに訊くと、名古屋までしらさぎの指定席券を買ってしまうと新幹線に乗るには別料金が発生するとのこと。1480円だから往復料金の1割にあたる。迷った末、会議に遅刻するわけにはいかないと思い、追加料金を払う。なにをやってるんだか。疲れていますね。

さて、書き込みも滞っていて、ハンナ・アーレントについて続きを書くといっていましたが、10日以上経ってしまい、フォルツァでの上映は昨日で終わってしまいました。

内心映画について書いたときに、「凡庸な悪」についてアーレントが、思考を放棄することで大きな悪を犯すことができると言っていたことを書きました。この「思考の放棄」について、別の本でも書いているので紹介します。本は、『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』(角川oneテーマ21)。8人の方が防衛・外交問題について考えを述べていなす。その中で、保阪正康さんは、満州事変以降の歴史的な流れ、とりわけ五・一五事件の公判で事件を起こして犬養首相を殺害した青年士官たちの助命嘆願運動が起きて、新聞もそれを肯定的に放送した事実を踏まえてこう述べます。

 この法廷を通じて、「日本社会は動機が正しければ どのような行動を起こしてもかまわない」との錯誤した空間をつくりあげていったと思う。近代国家の法体系など無視する情念を前面にだした社会風潮の到来である。

 満州事変の後に顕著になっていく二つの流れ、つまり「知的思考力の放棄」「情念主体の発想」が車の両輪となって、昭和10年代は異様な空間となっていく。昭和11年の二・二六事件は、こうした両輪を支えに行われた青年将校のクーデター未遂事件でもあったが、より問題なのはこうしたクーデターを利用して、陸軍内部の軍官僚は、「暴力行為への恐怖」をテコに、軍事主導体制にと入っていったことだ。

いま、首相は、憲法解釈の変更は閣議決定で行う、など立憲主義や法治主義を無視した発言を繰り返しています。歴史は繰り返します。

同じ本の中で、金平茂紀さん(TBSキャスター。一昨年の高岡支部教研でお話を聞くことができましたね))は、こう述べます。

 最近の社会全体の空気の変容を称して〈右傾化〉という言葉がよく使われる。だが政治レベルで野党がほとんど消滅してしまったような現状においては、あるいは冷戦の終焉以降、〈リベラル〉と総称された社会的勢力がほぼ死滅しかかっている日本の状況においては、〈右傾化〉という言葉自体がもはや効力を失っているのではないか。僕はむしろ、社会全体の〈想像力の萎縮〉〈思考の劣化〉がすすんでいると言った方が事態を言い当てているように思う。実感としてそれを感じることが多くなった。

と述べ、金平さんはその具体例を提示します。

保坂さんや金平さんの言う、「知的思考力の放棄」や「思考の劣化」はハンナ・アーレントの言う「思考の放棄」とは少し内容が違うかもしれませんが、本質は同様です。私たちは、考えなければ社会が間違った方向に行こうとしているとき、それを押しとどめることができない。むしろ、間違いに荷担してしまうことになる。

あらためて歴史から学びたいと思っています。

 

 

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