こんにちは、TKDです。
今日は久しぶりに家でゆっくりできました。でも、副委員長は会議出席のため東京に向かったところ、前を走っていた電車の故障で進めず、やむなく富山に引き返したそうです。アクシデントですから、どうしようもありませんね。忙しい1週間が終わり、ホッと一息。来週は3日間缶詰で運動方針案づくりです。
昨日の夜は青年部の役員会がありました。青年部の役員メンバーは本当にすばらしくて、年度初めの忙しい中での役員会にもかかわらず、建設的な話し合いが行われ、担当専従の私は感動していました。親組と同じとりくみをしているのでは意味がないこと、若い教員の求めているとりくみが必要なこと、若手がさまざまな仕事を任せられて苦しんでいること、などが語られる中で、新採教員と若手教員が語り合う場をつくろうという話で盛り上がりました。さあ、このやる気を実現できるよう、執行部がどう支えられるかが問われます。
今回の評議員会でも提起しながら思っていたのですが、情勢を批判的に分析し組合員に伝えることは大事ですが、聞かされる方は「また政権批判か」と暗い気分になると思うのです。昨年度の執行委員会でも、希望が感じられるものでないと、という意見が出ました。確かにその通りで、どんなに正しい(と自分たちが思っている)ことをいっても、共感し、行動しようという気になってもらえなければ、大きな力になりません。2月に読んだ國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)が思い出されます。
國分功一郎は現在高崎経済大学の准教授。専攻は哲学。彼が住む東京都小平市に半世紀前(1963年)に計画された道路の建設が行われようとします。建設されるルートには市民が憩いや学習の場として大切にしている雑木林があります。人口が減り、車が減り、交通量が減っているこの時代にどうして巨額の費用を使って、大切な雑木林を壊して、道路を建設するのか。理解できない筆者は、建設計画の差し止めを求める住民運動に参加し、その運動は建設の可否を問う住民投票を求める運動になるのです。運動は盛り上がり、住民投票も行われたのですが、建設計画を止めることはできませんでした。この運動の中で筆者は、国民が選挙で議員を選ぶという立法権にかかわる権利があるから民主主義が行われているという従来の考えに疑問を持ちます。大切なことの多くは行政の段階で決められ実行されているからです。そして(補完的に)行政にかかわる手段をいくつも制度化することが重要だと考えます。住民運動の経緯もドラマティックですし、民主主義のあり方を問う論理展開もわかりやすくおもしろい、お薦め本です。
その中で、運動の方法として印象に残った記述があるので紹介します。
何か問題を訴えるにあたっては、それをできる限り正確に言葉で伝えることが大切である。「ひどいんです」「怒っています」と感情に訴えるだけではダメである。それは一時的には熱狂を引き起こす場合もあるが、熱狂はすぐに消えていく。論理的に事実を説明できなければならない。/そしてその際の言葉は常に手短でなければならない。ここがポイントである。酷い事態には必ず歴史がある。だから当事者はどうしてもその歴史のすべてを訴えたいという気持ちになる。しかし、その事態を理解してもらうにあたっては、長い説明はむしろ障害になる。事態を歪曲するわけでもなく、しかし最も訴えるべき点だけを効果的に言葉にしなければならない。
ポスターも、よくあるフォントで「何々を絶対に許さない! 何月何日総決起集会!」などといったものにしてはならない。そんなポスターを作っても誰も「決起」してはくれない、既に「決起」している人たちが集まるだけである。この手のポスターには、よく「敵」陣営の人間がカリカチュアで描かれていたりするが、そういうのもダメである。
住民投票に限らず 、何らかの問題を人々に知ってもらうためには、街頭で活動しなければならない。では街頭での活動をどう行っていけばよいだろうか? 道に出てチラシを配布したり、街頭でマイクを使ってしゃべる、いわゆる「街宣」を行うということことが考えられる。それらに一定の有効性があることは間違いない。ただ、チラシを目の前に差し出されたり、マイクでしゃべっているのを聞かされたりすると、逆に反発する人がいるのも事実である。
こう述べた筆者は、プラカードを持って黙って道に立つのです。これらの記述は組合が行っているとりくみの弱点を端的に指摘しています。こういった意見に謙虚に耳を傾けながら、とりくみの方法を検討していくことが大事なのではないか、と考えさせられます。最近、自分の言葉が長くてイヤになります。もっと手短でないと…。