本書及び著者については、富山高教組HPの「書記長日記」で既に紹介されている(2014年4月2日、5月17日)。著者は1977年生まれの気鋭の政治学者だ。
著者の主張の要は、日本人は1945年の敗戦から一貫して、「侮辱のなかに生きている」(11頁)という点だ。そして、このような社会構造を「戦前・戦中さながらの〈無責任の体系〉以外の何物でもなく、腐敗しきったもの」と断ずる(12頁)。3・11の原発震災に対して、政府や電力会社のみならず、マスメディアや研究者たちも真っ当な責任ある対応をしなかったが、このような「無責任振り」は、戦前・戦後を通してこの国に蔓延していると著者は主張する。「純然たる「敗戦」を「終戦」と呼び換えるという欺瞞」(37頁)を行って「「敗戦の否認」の構造」(115頁)を作り上げ、対米従属を続ける中で「「平和と繁栄」を享受してきた時代」(115頁)―それが「戦後」だと著者は言う。となれば、そのような時代を「戦前」と明瞭に区別して「戦後」と呼ぶことはできない。標題の「永続敗戦」とはこのような状況を指している。
さて、A級戦犯を靖国に合祀し、天皇の戦争責任も追及せず、「鬼畜米英」から急転して「民主主義」を唱えるこの国の在り方に、著者は戦前の「国体護持」を見る。著者は、戦前の「国体」を「自主的決意による革新・革命の絶対否定」(184頁)と規定するのだが、ここが本書の眼目だ。この国の「戦後」に、真の革新や革命があっただろうか。占領国としての米国にただただ追従し、「無責任の体系」を温存し続けただけではなかったかー著者はこのような国の在り方を糾弾している。「侮辱のなかに生きない生き方」とは、とるべき責任をとり、自らの意志で、決然と自らの国の在り方を変えようする生き方であろう。
〈評・高木 哲也〉
太田出版・2013年・1700円+税 (14年8月10日)