前回に続いて、あと1冊だけ、10月10日付け本欄で評した佐藤和夫論文で紹介された本を扱いたい。時短に係わる問題として、余暇の意義を考えることは極めて重要だからだ。
著者は1904年生まれのドイツのカトリック哲学者。本書は今から約50年も前に書かれた。その内容は、かなり晦渋であるが、私たちの人生における「余暇の意義」を考えるためには大いに参考になる。
本書で著者は「余暇」と、「怠惰」「祝祭」の関係を独自に提起するが、ここでは、「余暇」と「怠惰」の関係をのみ扱う。「中世文化華やかなりし頃の人生観は(中略)「余暇の喪失」、つまり「余暇を実践する」能力の喪失がまさしく怠惰と結びついているのだ(と考えていた)」(60~61頁)、つまり、「自殺行為ともいえるほど無茶苦茶に働くこと、それが実はなまけていることなのだ、と中世の人生観は教えている」(61頁)と著者は述べる。それでは、ここで言う「怠惰」の意味は何か。著者は「人間が彼固有の尊厳にふさわしい生き方を放棄してしまうこと」(同頁)だと述べる。更には、「形而上学的、神学的立場からいえば、「怠惰」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味します」(62頁)とも述べる。人がどんなに働いたとしても、「人間本来の生き方とは何か」という命題を考えないとき、人は「怠惰だ」と言われるのだ。
更に「余暇と怠惰の関係」については、「本当の余暇というものは、人間が本来の自分と一致するときにはじめて成立するものです。そして、「怠惰」(acedia)とはまさに人間が自分自身と一致していない、ということです」(65~66頁)と著者は述べる。
私たちが「人間本来の生き方」を何も考えずにただひたすら一生懸命に働いても、それは真の幸せには結びつかない。本書は、「自己省察の怠惰」への警鐘である。
〈評・高木 哲也〉
講談社学術文庫、1988年、500円+税 (14年11月10日)