雑誌『教育』は本年5月号で特集「検証・ブラックな学校」を組んだ。本論文はその巻頭に掲載されたもの。
まず著者は、「学校が『ブラック』になじみやすいのは、教師の仕事に本質的につきまとう複雑さがある」(60頁)と指摘する。教員は一日のうちで、授業、生徒指導、保護者対応などの様々な仕事を遂行する。このような中で、久冨善之がかつて指摘した「子どもや親との関係づくり=『教師に対する信頼と権威の確保』のために、子どものためならば私生活を犠牲にすることもいとわない」(61頁)という日本の教員文化に基づき、「教師は熱心に忙しく仕事をしていることが、『ダメな教師』と見られないために必須のこと」(同頁)となる。そして、「こうなってしまえば、『生き残っていく』ための『熱心・多忙化競争』が起きるのは必然である」(同頁)となるのだ。
しかし、今日では様々な困難を抱え対応が難しい子どもが激増している。そこで、「ここに学校スタンダードや学力テストのように、目に見える『結果』をすぐに示しやすい枠組みに取り込まれるメカニズムが働く。『熱心・多忙化競争』に疲れきっている教師にとっては、それに代わる基準を受け入れるのは、当然なのかもしれない」(63頁)。しかし、著者は「『スタンダード』が専門職にとってもっとも必要とされるはずの判断を行う権限を剥奪するものであることは明らかである」(64頁)と指摘する。私たち教員は、「熱心・多忙化競争」に奔走し、疲れ切り、やがて自らの判断が不要となる「学校スタンダード」などに頼ってはいないか。これでは専門職としての適格性が問われよう。
著者は本論文の最後で「『教育とはなにか』を、改めて問い直し、そこから教師の仕事を再構成すること」(66頁)を提案する。多忙化解消の根源は正にここにあると強く感じた。
〈評・高木 哲也〉『教育』2017年5月号所収、667円+税 (17年5月2日)