本論文は雑誌『教育』2月号の特集「私の『主体的・対話的で深い学び』」の巻頭論文である。評者は、以下に示す4箇所に深く同感した。
①「このたびの学習指導要領等(2017)を中核とする教育政策のいわば露払いとなった『資質・能力』論(中略)で用いられた多くのモデルは、学習者の知識獲得を使える知識としてどう構造化するかというものであるが、結局それらが取り込まれた政策は、知識を有効にする多くの学習活動が必要ということになってしまった感がある」(5頁)
②「『何ができるようになるか』が政策側のあせりとして構想され、学校と社会をとりまく強い説明責任論のなかで、達成偏重の成果主義として機能してしまうことを危惧するものである。成果主義が学習目標を脅かすと、教育は貧しいものになる」(7頁)
③「近年多くの『学習・生活規律スタンダード』が、学校に持ち込まれている。(中略)たとえば、いろいろの場面で黙って従事するように定められることがある。だがこのことをくり返し経験すると、人は黙ることを学習し、それはほかの場面にも転移する」(8頁)
④「『結果を出せ』との圧力にさらされる活動は、絶えず追われるような切迫感のなかで主体感覚を奪っていく。子どもにも教員にもまた学校自体にも、急がされ翻弄されることのない学びの主体としての保障が必要である。自分を取り戻すためには、ゆとりが必要である。(中略)余裕のない教育では、子どもの学びを先取りしてしまう。教員が、機に応じて待ち、委ね、任せるゆとりの確保は喫緊の課題である。学校時間を見ても、すきまの時間に活動が設けられてしまう。人の活動は運搬荷物ではない。すきまに詰め込んでたくさん運べるだろうと考えるのは愚かである」(11~12頁)。
成果と効率と管理を求め続ける限り、「主体的・対話的で深い学び」など成立するはずがない。
〈評・高木 哲也〉『教育』2018年2月号所収、667円+税 (18年2月15日)