第1次世界大戦開戦の年から100年。植民地、勢力圏を奪い合う帝国主義戦争となった第1次世界大戦では900万人の犠牲者がでました。ファシズムと民主主義との戦争となった第2次世界大戦では5千数百万人の犠牲がでています。これらの大戦を経験した人類は、過去に向き合い過去を正しく認識し、これに基づいてグローバル化する国際社会に生きていかねば、悲しい歴史は繰り返されるばかりであると学んだはず。しかし、今もなお多くの国際問題に悩む人類。2014年8月、大戦の中心となったチェコ・ドイツを訪れ、「過去をどう克服してきたのか」を探るたびに出ました。
旅の始まりはプラハから
14世紀に神聖ローマ帝国の首都として栄華を極めたチェコの首都です。モルダウ川が、町の中央をゆったり流れ、川の西側にはプラハ城がそびえ、東側には旧市街・新市街が広がり、プラハの歴史地区は世界遺産にも登録されています。長い歴史を刻んできたほとんどの時代で、周辺国の侵略を幾度となく受けてきましたが、奇跡的に町のほとんどを破壊されず華やかさを保ちながら発展してきました。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーボーと各時代の建築物が保存された独特の街並み、赤レンガ屋根の古い建物、石畳の入り組んだ路地・・・・。あまりの美しさに心を奪われます。
まずプラハ城を訪れました。オバマ大統領が2009年4月にプラハ演説(核廃絶の具体的な目標を示す演説)を行ったフラッチャニ広場を通ってプラハ城へと入ります。
第2の中庭から門をくぐって
第3の中庭に入ると圧倒的な迫力で迫ってくるのが、聖ヴィート大聖堂です。
プラハ城の聖ヴィート大聖堂(ゴシック様式)↑
網目状のヴォールト天井や様々な作者によるステンドクラスが美しい
ステンドグラス(ムハの作品)
プラハ城は9世紀半ばに城の建築が始まり、幾多の変遷を経て14世紀のカレル4世の時に現在の偉容に。
プラハ城から見下ろすプラハの街並みとカレル橋
プラハの中心となる旧市街広場とストリートパフォーマー
旧市庁舎(ゴシック様式)と天文時計
現在の建物は第2次世界大戦で破壊されたあと修復されたものです。かつては塔の横には建物がありましたが第2次世界大戦中ナチス・ドイツにより破壊され、その記憶を忘れないようにと、現在空き地のままになっています。
ユダヤ人街へ
旧市街広場からおしゃれなブランドショップやレストランが並ぶ洗練された通りを過ぎて、旧市街の北側に広がるエリア、ユダヤ人地区と呼ばれるかつてのゲットーへ。ゲットーとは、ユダヤ教徒が住むことを許された一定の地区のことです。ユダヤ人の迫害の歴史は長く、紀元前70年から第2次世界大戦まで続きます。ここにはドイツ占領下の各国からユダヤ人が集められ、ここから強制収容所へと送られました。このユダヤ人地区に5万人ものユダヤ人が住んでいましたが、戦後まで生き残ったのはわずか2500人に過ぎなかったと言われています。ユダヤ人にとって大切なシナゴーグ(教会寺院)や墓地は今も残されています。その中のいくつかを訪れました。
シナゴーグとは、ユダヤ教区における生活の中核で、また社会問題解決の場、教育の場でもありました。旧新シナゴーグは、中欧に現存しているシナゴーグの中で最古で13世紀に完成しています。常に人々に敬愛され、ここで司祭を務めた人はプラハ・ユダヤ人地区で重要な地位を占めた著名な学者ばかりです。
ピンカス・シナゴーグはホジョフスキー家の私的礼拝堂として16世紀に建てられました。現在、ここのシナゴーグは、ナチス虐殺犠牲となったチェコ国内のユダヤ人77,292人の記念的な建造物となっています。
地下の壁一面には犠牲者の名前、死亡収容所場所および死亡年月日がびっしりと書き連ねられていました。これだけ多くの犠牲者がいたことに驚くとともに、よくここまで名前や死亡年月日を調べ上げたというその凄さに溜息がでるばかりでした。
ピンカス・シナゴーグを出て、旧ユダヤ人墓地の入口へとつながっています。1万2000基もの石版状の墓石が折り重なり、支え合い、あるいは倒れてしまっている様子は一種異様な雰囲気を漂わせています。
ピンカスシナゴーグの上階には、1942-44年にかけて、テレジンに収容されていた子どもたちの絵4000点のうちの一部が展示されていました。ドイツ兵の目を盗んでこっそりかかれたのでしょう。ノートを破った一枚、ポスターや計算用紙の切れはしなどを利用して、鉛筆書きや貼り絵、彩色があってもせいぜいクレヨンか色鉛筆。描かれたテーマはいろいろ。家族との生活、友達との遊び、犬や猫のペット、食事風景、お菓子など、失われた過去の生活に思いを寄せながら描いていたのでしょう。現実にあるのは過酷な収容所生活なのです。
ほとんどの作品に作者名と年月日が入っています。収容所内で子どもたちに絵を教えた画家のフリードル・ディッカー・ブランディズさんの指導です。もちろん彼女は囚人の一人です。彼女は絶望的な日々の子どもたちを助けようと、あらかじめ多量の画材を持てるだけ持って収容所にやってきていました。1944年10月に子どもたちとともにアウシュビッツへ向かうまで、子どもたちのこころの支えだったのです。
プラハ城下の華やかな街並みとは対照的な雰囲気のユダヤ人地区。しかし、ここを訪れる人がとても多いのに驚きました。特に、テレジンに収容されていた子どもたちの絵をみて、過去の悲しい歴史をこころに刻もうとする人々の中に、高校生や大学生など若い世代、小さなお子さんを連れた親子、恋人同士などが多いことに日本との違いを感じました。