旅先から

チェコ・ドイツを訪ねて2~子どもたちに希望の光を~

テレジンを訪ねて

  プラハの北へ60kmほど離れた小さな町テレジン。皇帝ヨーゼフ二世の治世下、敵軍の侵入を防ぐ目的で1780年に要塞(小要塞・大要塞)が建てられました。19世紀初頭以降には、小要塞は軍人や政治犯を投獄する監獄となりました。第二次世界大戦下、チェコの領土がナチス・ドイツに占領され、大迫害施設へと変えられていきました。

 テレジン地図

 

 左上が小要塞 その反対側が大要塞

 

 

 

 

テレジン小要塞を訪ねて

  テレジン小要塞の前に、国民墓地が広がっていました。墓に花や石が供えられていました。ここには、小要塞のゲシュタポ政治犯刑務所、テレジン・ユダヤ人ゲットー(大要塞)、そしてリトムニッツェ強制収容所で命を落とした約1万人の犠牲者の遺体が安置されています。

 テレジン墓2テレジン墓

 

 

 

 

 

 

  

テレジン小要塞への入り口 

テレジンゲート  大戦中に小要塞(ゲシュタポ政治犯刑務所)に送られた逮捕者は32,000人。そのうち5000人が女性でした。各国の政治犯(様々な抵抗運動のメンバー)や軍人捕虜、人質、規則を守らないユダヤ人たちが投獄されていました。

 

 

 

 

ARBEIT MACHT FREI

「労働は自由にする」「働けば自由になる」などと訳されるこの言葉が、収容所の入口の労働で自由に門に掲げられています。しかし、現実には、過酷な労働に囚人たちは苦しめられ死んでいったのです。

 

 

 

 

 

ここで人々はイワシの缶詰ように並んで寝ていました。

テレジンベッド 

 

 

 

 

 

 

 ナチスは、国際赤十字の視察調査に備えて、表向きは「モデル収容所」に見せかけようテレジン衛生部屋と、ユダヤ人にオーケストラを作らせて音楽活動をさせたり、絵を描かせたりして、「こんなに芸術活動を奨励していますよ」と体裁を繕い、ユダヤ人を迫害していないようにみせていました。小要塞の中には、視察用のきれいな部屋まで準備していました。

 

 

 

 

テレジン看守家 囚人たちが過酷に迫害された生活をしているすぐ横に、看守たちの住まいが建てられています。看守の子どもたちは、プールや映画を楽しんで優雅に生活していたのです。

 

 

 

 

 当初は、刑務所の中にだけ、チェコ国内のユダヤ人を居住させる場所として考えられていました。しかし、送られてくるユダヤ人の数が増え、1942年には、大要塞の街に住んでいたチェコ人を移住させ、テレジンの街全体を封鎖して外界から隔離されたユダヤ人のゲットーにしました。

 ユダヤ人テレジンへ「ユダヤ人が安心して暮らせる場所へ送る」というナチス・ドイツの言葉を信じてテレジンへ。しかし、街に入ると全ての持ち物を取られ、食糧の配給もわずかで、過酷な生活が待っているだけでした。16万人の成人男女、子どもたちが各国(チェコ、ドイツ、オーストリア、オランダ、デンマーク、スロバキア、ハンガリー)から移送されてきました。テレジンで3万3000人が病気や飢えや過労、ドイツ兵による暴行や拷問や刑罰で亡くなりました。そして、8万8000人がアウシュビッツなどの絶滅収容所へ送られ、そこのガス室で殺されました。

 

 

テレジンの収容所の子どもたち

 このテレジンには、1万5000人の子どもたちがいました。子どもたちは、親から離されて生活していました。部屋には3段ベッドが並びイワシのように何人もが重なり合って寝ました。粗末な食事しか与えられないのに、大人と同じように1日10時間以上もの労働をさせられ、過労や栄養失調で倒れた子どもたちは、「労働力としての利用価値がなくなった」といわれ、貨物列車でどこかへ連れて行かれ、もう二度と戻ることはなかったのです。

飢えや寒さ、親と会えない淋しさ、過酷な労働、死の恐怖・・・、ドイツ兵に怒られないようにひっそり暮らし、笑顔を失った子どもたち。そんな子どもたちの姿を見た大人たちは、「子どもたちの笑顔を取り戻してやりたい、たとえ限られた時間しか生きられなくても、生きていることは素晴らしいということを教えてあげたい」「子どもたちにとって生きる力になることは何だろう?」と考えました。

 命令されていないことをすれば処罰されるだけの収容所の中で、大人たちはドイツ兵に何度もかけあい、教室が開かれることになりました。もと学校の先生だった人、音楽家、詩人、作家、画家・・・。

 フリードルその中に、女流画家だったフリードル・ディッカー・ブランディズがいました。彼女は、友人たちからの「逃亡すべき」との提案を断り、子どもたちのために、ドイツに残り、ナチス・ドイツによってテレジンに送られました。彼女は、50kgだけ持ち込むことを許された荷物に、寒さをしのぐための衣類ではなく、集められるだけの画材を持ち込みました。アート・セラピーも学んでいた彼女は、絵を通じて子どもたちの抑圧された精神状態や不安などからくる内面の問題をよみとり、適切な語りかけをし、さらに、子どもたちの個性も引き出したのです。絵画、貼り絵、切り絵、コラージュなどを教え、自由な発想で作品をつくらせたのです。食べ 物もなく、過酷な労働は続きましたが、子どもたちは少しずつ笑顔を見せ、優しい気持ちを取り戻し、素晴らしい才能を表すようになりました。しかし、ナチス・ドイツにとって、子どもたちはただの労働力。病気になったり、衰弱したりした子どもたちを次々と東の絶滅収容所へ送ったのです。

 テレジン子ども絵2テレジン子ども絵1

 

 

 

 

 

 

 

 

 テレジンでの悲劇を伝える、テレジン記念館(小要塞、大要塞)は、かつての囚人や遺族の提唱により、自由、民主主義そして人権の抑圧の悲惨な結果を記憶にとどめるため、1947年に設立されました。ここを訪れていた人々は、プラハのユダヤ人街と同じように、若い人、小さい子どもを連れた親子連れ、恋人同士といった人々も少なからずいました。訪れた人々は、悲しい歴史の事実を知り、こころに刻もうとしていました。様々な国から人々が訪れるそうですが、中でもドイツ人が一番多いとのこと。自分たちの国が過去に行ってきた、あまりにも残酷な過去にしっかり向き合おうとする彼らの姿が印象的でした。

 

 

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