「福島震災復興支援・被災地福島の視察と交流」の旅
2014年12月13~14日に、富山県生活協同組合連合会主催の「福島震災復興支援・被災地福島の視察と交流」の旅に富山高教組書記局から7人が参加してきました。
いわき市から北上して、楢葉町、富岡町と原発が立地している町を訪ねるルートです。
生協連の取り組みに感動!
いわき市にある「浜通り医療生協」で、3.11後の活動について説明を受けました。 地震・津波・放射能の三重苦に苦しむ福島。特に原発が立地する浜通り地区は、3.11から3年と9か月の時を経ても、復興からほど遠いのが現状です。政府の対策が進まない中、生活協同組合連合会(生協連)は住民の不安に寄り添い支えるために、被災当初から救援物資支援・ライフライン確保支援・医療支援・訪問援助など、全国の仲間とつながって独自に支援を行ってきたそうです。地域訪問では、1週間で1700戸の家をまわるなどして地震発生から1か月で全戸訪問をし、住民一人ひとりに支援をされたとのこと。
また、「福島の食と農の安全」「福島の人々の健康」を守るため、徹底した検査体制を整えています。高額な検査機器(ホールボディカウンタ・FTF、ゲルマニウム半導体検出器、食品放射線測定器など)を自ら導入し、食品や調理品の1つ1つを、また住民一人ひとりを、さらに福島じゅうの農地という農地を、気が遠くなるような努力と「福島を守りたい」という熱意で計測し続けています。福島の人々の健康が守られているのは、この努力があってこそ。さらにこの実績を生かし、行政に情報提供しているとのこと。こんな重要な事を、民間の活動に多く依存している、この国の在り様に憤りを感じます。
FTF搭載車 食品放射線測定器
食品放射線検査 農地放射線調査
いわき市の状況
原発から30km圏内にあったいわき市北部(久之浜町、小川町、四倉町など)。屋内退避や避難区域に指定されました。数か月後に安全宣言をされ、区域の解除となりましたが、原発事故発生当初、人口の約半数がいわき市から避難。大半が3ヶ月で戻ってきましたが、最終的にいわき市(32万人)からは2700人の人口流出がありました。帰宅困難な双葉郡(大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町、広野町など)からの住民を中心に、2400人ほどがいわき市に避難し、仮設住宅だけでも3500戸以上建設されています。電力会社の社員の居住地にもなっていて、いわき市の地価の価格が急激に上昇する。新しく準備される復興公営住宅は、希望する人皆が入れる余地はない。など住宅事情も非常に深刻な状況にあるとのこと。私たちが住む富山県の西部(氷見など)は、石川県の志賀原発から30km圏内にあります。私たちの身にも起こることとして考えるべきです。
福島県内の震災関連死は現時点で1800人を超え、今も被害が拡大しています。人と人とのこころの分断。無用の対立を避けるために黙って耐える。帰還しても子どもをことを心配するお母さんたちのストレスが大きい。・・・・話し合う場の提供・帰還者への雇用の確保など、本当になされるべき支援が十分ではないと言えます。
甲状腺がんのゲノム解析ができていない。正しい診断を受けるためには他県に行くしかない。・・・・など、正しい情報が隠されています。情報提供を住民が求めても、ひた隠しにする国の対応に大きな問題があります。このような国の不誠実な対応は、福島の人のこころを様々な形で苦しめることになっています。
不安・ストレスを抱え悩み続ける保護者や子どもたち
子どもたちは、原発事故後今も、外遊びができないなど制限された生活に悩まされ、保護者も共に苦しんでいます。
子どもたちを守る取り組み
「福島子ども保養プロジェクト」(愛称:コヨット!)がそんな親子の不安を和らげる場になっています。このプロジェクトは、原発事故被災地域の子ども保護者を対象に、週末や長期の休み期間中に、放射線の低い地域で過ごしてもらう活動を2011年12月から実施しています。主催は、福島の生協連・ユニセフ協会、福島大学災害復興研究所で、全国の生協連の協力や関係協力団体の募金・寄付金によって行われています。富山県でも朝日町がこれに応え、春・夏の年2回(これまでに4回)、このプロジェクトに熱心に取り組み、生協連の方がボランティアに加わるなどして支え続けています。
原発立地の町は今・・
磐越自動車道で、いわき市から楢葉町、富岡町へと向かいました。
右の地図では福島が地区ごとで様々な状況にあることがわかります。
楢葉町は、原発から20km圏内にあり、除染が進み、全域で避難指示解除準備区域に。しかし、放射能汚染物を入れたフレコンバックが、仮置き場や家の庭などに置かれたまま。これを中間貯蔵施設に移動する作業には、様々な問題があります。
町を通過する途中の仮置き場には、除染などで出た放射能汚染物を入れたフレコンバッグがシートをかけられた状態で置かれています。フレコンバッグの耐用年数は3年程度で元々仮置き場は3年契約とされていましたが延期に。さらに、今後これらのフレコンバッグを中間貯蔵施設に移動させる作業が必要となります。10トントラックで毎日運んでも3年はかかるとのこと。フレコンバッグの痛みも激しく、慎重な作業がなければ新たな汚染も起こり得るのです。しかし、東京オリンピックなど危険を伴わない事業に、多くの業者が携わることになれば、フレコンバッグ移動に係る仕事をする業者や人は激減すると予想されます。一刻の猶予もならないというのに、国が本当に復興予算を適切に使っているのか、我々国民にきちんと説明すべきです。
フレコンバッグで敷き詰められた仮置き場
富岡町に入ると人の気配は全くありません。同じ町の中で非難指示解除準備区域と居住制限区域と帰宅困難区域が混在しています。道路の反対側は人が住めない所なのに、許可されたからと帰宅できるでしょうか?分断された町の苦悩を感じます。
富岡町にある「夜ノ森の桜」。居住制限区域と帰宅困難区域にある夜ノ森地区の、全長2.5kmにもわたる長い桜のトンネルで、毎春10万人超の観光客を集めていました。除染作業で無造作に切られ、花つきが悪かったこともあったとのこと。
この先の桜は、帰宅困難区域にあります。(右)
桜の並木の近くの家のそばにはフレコンバッグが積まれています。(左)
持参したガイガーカウンターの数値があがっていきます。富岡町を巡るときのバスの中でも0.9μ㏜、富岡駅周辺では1.9μ㏜とさらに高い数値に驚きます。
津波の被害が痛々しく残る富岡駅周辺の町の様子は、恐ろしい破壊の後のゴーストタウンといった状態。設置されているモニタリングポストの数値より、持参したガイガーカウンターの数値の方が高いことを確認し、報道される数値の信憑性に疑問を感じました。
富岡町の民家(地震で崩れそうになったままの状態で放置)
富岡駅周辺の様子
津波で流された当時のままの富岡駅 民家の中に津波でトラックが・・・
富岡駅向い側の様子 富岡駅近くのモニタリングポスト
富岡駅近くに作られた慰霊碑に花をたむけ黙祷 富岡町でガソリンスタンド営業再開
久之浜地区(いわき市内で被害が大きかった地区)を訪ねて
久之浜町は、いわき市の最北端に位置する海沿いの港町で、いわき市の中でも津波の被害の大きかった地域です。特に商店街は、地震による津波とその後の火災で40余りの店舗が一夜にしてなくなりました。しかし、津波から半年後の9月に、町内の小学校の敷地に被災地としては初めての仮設商店街「浜風商店街」をオープンさせたのです。鮮魚店・食堂・理容室など9つの店舗を構え、あたたかな笑顔で私たちを迎えて下さいました。
「からすや食堂」の店内には有名人の応援メッセージがいっぱい(右)
3.11を伝える店舗では、壁一面に記録写真が掲示に圧倒されました(左)
内閣の閣僚・大臣も来ておられるようですが、まずは正しい政治を、そして、正しい復興支援を求めたいものです。(左下)
海外からの応援メッセージもきています。(右上)
訳「こんな困難にも耐えてこれたのは、あなた方のこころの強さがあってこそです。久ノ浜であったことを、ここで知り得たことにただ感謝するばかりです。私たちは今後もできうる限り祈り支援を続けていきます。思いやり深く強いこころの皆さんに神のご加護がありますように トゥポウトア・ウルカララ・トンガ王国皇太子殿下」
福島の悲劇を再来させてはいけない!
安倍総理は、原発事故について「汚染水は完全にコントロールされている」と発言し、東京オリンピックなどの経済を優先する政策や原発の再稼働を進めています。現地を訪れ報道されていない真実を見聞きして感じました。「福島で起きた悲劇をもっと検証し、福島を真に復興させなければ、この国でもっと多くの悲劇が生まれるだけだ」と。
私たち日本人は、「福島を絶対に忘れてはいけない!」という覚悟を持つべきです。