富山高教組主催 3.11から4年となる 福島への旅(2015)
2015年3月14日~15日、高教組企画「福島へのたび」に31名が参加しました。福島県立高教組女性部長・大貫先生の案内で、様々な問題を抱える地域を訪れました。
まず飯舘村へ。美しかった村は今では全村避難の村になってしまいました。除染土などを入れたフレコンバッグがあちこちに置かれていました。75%が山林の村で、除染は家の周囲10mのみです。山林の除染は不可能なため、人が安全に住める状況からは程遠い状況です。しかも学校・店・病院などの生活基盤の復旧が全く見込めません。
村のあちこちに置かれた除染ごみを入れたフレコンバッグ
日本で一番美しい村のひとつとされていた村は、荒れ果てた状態に
2年後の帰村を目指す自治体の動きにも無理があります。村民が住む仮設住宅で、話を伺いました。「『大家族で農業を営みゆったりとした暮らし』から『薄い板1枚で隔てられた狭い仮設住宅の暮らし』に変わり疲れた」、「多くの若い世代が離れて暮らすようになった。仮設に残された村民の心のつながりを大切にしたいと、集会所でイベント等を頻繁に行うも、参加できず部屋に閉じこもりストレスを抱える村民が心配だ」・・・・など。3・11の事故直後の実態も聞きました。「異常に高い放射線量となった村で危険性の説明はなく、汚染されたものに触れたり、口にしたりもした。東電社員が真っ先に避難した中で、村民への避難指示はなんと事故の1か月後だった」と。頑張ってきた前自治会長さんの「自分の人生には、良いことがなかった…」の発言に皆言葉を失いました。
仮設住宅を訪ねました
農民連直売所『野馬土』を訪ねました。お米の放射線量を下げる工夫や、全袋検査を徹底して行い福島の食の安全を守ろうとする闘いの現場です。福島産の農産物の商品化を工夫したグルメ商品が店に並び、皆さんが復興を願って大いに買い物を楽しみました。
「地域を返せ、生業を返せ」原発訴訟団長の中島孝さんと懇談会を行いました。中島さんは4千人の仲間と103人の弁護団と「①もとの美しい福島、生業と生活・ふるさとの回復 ②東電と国の加害責任とその賠償」を要求しています。当然の要求にも関わらず、「裁判をすることで白い目で見られる」と語る中島さん。汚染水を海に流す許可を漁師から得ているとする国・東電。漁師は莫大な賠償金をもらい、声を上げることができない状況です。「貧しい地域をつくりお金で釣るといった矛盾した『構造』の日本。将来の世代にこれだけのことをしたと誇れる人生を送りたい。だから裁判を闘う。」との力強い言葉。さらに、「日本は国民主権の国。主権者教育を大切に!」と私たちへのエールもいただきました。
津波が全てを流した請戸海岸を訪れました。以前に痛々しく横たわっていた船や車、がれきなどがずいぶん撤去され、除染ごみの仮置き場がどんどん広げられようとしていました。そして、そこには、除染ゴミでいっぱいのフレコンバックが山積みになっています。
津波で流された車などがまだ残る
その向こうには、除染ごみ仮置き場が設置されている
4年間卒業式前日のままの請戸小学校も訪れました。教室の黒板に、卒業生の学校を懐かしむ書き込みもありました。学校の安全教育のおかげで全ての生徒が無事避難できたとのことに、わずかな救いがありました。
請戸小学校を訪ねました。
建物の中は、以前より片付けられていますが、外観はそのままの姿です。
請戸小学校の教室内では、時計と学校の目標が震災当時のままです。そして、全ての教室の黒板には、訪ねた人たちのメッセージがぎっしりと書かれています。
信号が点滅する浪江町を訪ねました。放射線量が高く5年間は戻れない「帰宅困難区域」が8割を占めます。町のあちこちに地震で倒れそうになった家屋が未だ手つかずです。駅前には自転車が置き去りのままになっています。持ち寄った放射線測定器で測定しました。毎時5µ㏜を超えることもあり愕然としました。
「希望の牧場」の吉沢さんは殺処分せずに牛を育て続け、「3・11はまだ終わっていない」と各地で訴えています。「都会の発展は福島の犠牲の上に成り立つ。自分は安全だからと何も考えず、被災地は他人事になっている。しかし今後何が起こるかわからない。深く考え議論し行動すべきだ。そして国の政治に反映させていくべきと訴え続ける」と、命をかけた言葉に熱くなりました。
南相馬市小高区は避難解除準備区域で現在も宿泊禁止となっています。しかし2年後には、区内の小中高校全ての再開が予定されています。仮設暮らし、補償金生活、家族の分断・・様々な問題が子どもたちの心を不安定にし、学力低下も問題になっています。しかし、国は補償金を打ち切るために、「元通りになるから町や村に戻れ」と号令をかけます。一番の犠牲はいつも子どもたちです。「国の都合に合わせた施策が本当に国富となるのか」と、疑問を感じる旅となりました。
参加者からの感想を紹介します。
大きな不条理と、それに声をあげる人々
福島で感じたのは圧倒的な不条理でした。原発立地自治体には避難指示が出ていたのに、隣の浪江町には何の連絡もなかったこと。役場の職員が隣町に行ったら蛻の殻だったという話は衝撃的でした。放射線は市や町の境で止まるわけではないのに。放射線量の高い飯館村に、その情報は伝わらず、伝わってからもなかなか避難指示が出なかったこと。そこで過ごした人々の不安はいかばかりか。ぺらぺらの壁1枚で隔てられた仮設住宅での暮らし。テレビのリモコンを操作したら、隣の家(部屋)のテレビが切り替わったというのも驚き。「仮設」とはせいぜい1,2年の話のはず。4年も過ぎたら「仮設」とは言えません。復興の前に「復旧」でしょう。補償金の基準が業種によって違うこと。それまで仲良く暮らして人々の間に、分断と対立がもたらされました。もたらしたのは誰なのか。放射線量が高いために、津波の被害がそのまま残っていること。岩手や宮城の被災地と大きな差がそこにあります。家畜は問答無用で殺処分されること。育ててきた人の気持ちは察するにあまりある。大きな大きな不条理が被災地に横たわっているのに、同じこの国に暮らしている人々に伝わっていない。3.11の前と同じように生活しています。自分もまた同様です。
福島で出会ったのは、その不条理に抗する人、またそれを伝えようとする人、諦めずに地域社会を支えようとする人たちでした。だから、その言葉は重く、強く、心に残りました。苦しい中で、それでも声をあげ続けることに、その人間としての強さに打たれます。(S.Tさん)
WASURENAI・・・「福島への旅」についての報告
誰もいない家、人の気配のない街、列車の来ない駅、請戸(うけと)小学校の二階の音楽室のグランドピアノ、先程までの人の暮らしの営みの中で活躍していた人の息遣いが、タイムストップしている「瞬間」を観ました。津波と放射能汚染による影響下の出来事です。
4年前に起こったニュージーランド大地震の後に発生した3・11の東日本大震災の爪痕を、やっと見に行こうと思えるようになりました。そして観に行かなければ、脳裡に焼き付けなければ、避けてはいけないことだと思えるようにもなりました。放射能の怖さを安全神話というおとぎ話を現実問題として、「知識」として「感性」として押さえておかなければならないと思いました。大震災を感情論でとらえるのか、理論的にとらえるのか、命題を持って福島に向かいました。その結果、福島の悲しさや悔しさを、現場に行って自分の五感で感じ取るしかなかった。そして「理不尽」という言葉が頭の中を過ぎりました。
洗濯物を外に干したり、布団を干した後のお日様のにおいを嗅ぐことの幸せを、富山の青空の下で感じる自分がいます。「お天道様」は幸福のシンボルです。早春に感じる日差しの温もりは、人の心を穏やかにしてくれます。富山県には、原子力発電所を有していないのも事実です。いつも他人ごとのように感じています。何という利己的な考え方だろうか、マイクロシーベルトや線量検査、全村避難ということを忘れてしまっています。
今我々が学ばなければならないことは、原子力発電所が完全に安全なエネルギー供給システムではないということです。況してやビキニ諸島の原爆実験、チェルノブイリの原子力発電所の爆発などなど、こんなにも過去の歴史は我々に示唆を与えているのに、また同じことをしようとしています。放射能はもちろん医学的にも農学的にも必要です。されどエネルギー問題として原子力は必要なのでしょうか。我々が学ばなければならないことは、沢山あります。真理の追究と風評に流されない眼を養いましょう。(I.Nさん)
3.11から4年となる「福島へのたび」に参加して
4年目の3.11を過ぎた3月14日は、「北陸新幹線開業」に県内が沸き返った日だった。富山駅周辺は、北陸新幹線に乗車する(と思われる)旅行客や見物客で、早朝にもかかわらず賑わいを見せていた。私自身も興味がないわけではなかったが、この日に、新幹線や東京に背を向けて、「福島へのたび」に参加することは、有意義なことだと思えた。
美しい磐梯山、安達太良山の景色をすぎ、初めて福島市内を通過した。明るくまぶしい陽光に「ああ、ここは太平洋側なんだな」と気候の違いを強く感じた。この明るさ、自然の豊かさは、この旅でお話いただいた福島のみなさんの、前向きで力強い人柄につながっている、と今でも感じている。
川俣道の駅で、ガイドをしてくださる大貫先生と合流し、全村避難を強いられている飯舘村をバスで通過した。バス内からの見学だったが、人のいなくなった里山の風景に、言葉がなかった。水田だった土地は雑草(冬枯れしていたが)に覆われていた。子どもたちのいなくなった小学校の校舎、空き地の所々に野ざらしにされたフレコンバック…人の住まなくなった家屋がつらなる風景は、しんとして音のない風景だった。田畑がひろがり、山菜やきのこの豊かな山の恵みをいただいて、飯舘の人たちはずっと暮らしてきたと聞いた。その暮らしが何の前触れもなくいきなり奪われた。放射能汚染は今も続いていて終わりが見えない。
相馬市の大野台仮設住宅に避難しておられる飯舘村の方の話を伺うことができた。前自治会長さんは、避難生活の困難さ、飯舘での生活がどんなだったかを話してくださった。そしてその終わり際にぽつっと「…つまらない人生だったですよ」と言われた。こんな言葉を、私たちの親の世代に言わせていいのか…自分の親や祖父母の人生と飯舘の方々の人生が重なって思え、「これが私たちの生まれ故郷で起こったことだったら…」と胸がしめつけられた。積み重ねてきた人生への「誇り」の問題だと思った。
その後相馬市にある農民連直売所「野馬土(のまど)」を訪ねた。「野馬土」には三つの意味があるそうだ。一つ目は「遊牧民」をあらわすフランス語ノマード。土地を離れ避難している福島県民のこと。二つ目は相馬のお祭り「野馬追」にかけ、この祭りのある相馬を復興の拠点に、という願い。三つ目は世界に開かれた「野の窓」。この地域の教訓を忘れず、全国・世界に発信していくという意志と未来への希望。この中心人物である三浦さんを取材した『福島のおコメは安全ですが、食べてくれなくて結構です。〜三浦広志の愉快な闘い〜』は痛快な著作だった。「最終的に、福島の原発事故が収束してくれることと、僕たちが楽しく生きていけることが一番大事」と語る三浦さんは、農地の天地返しを繰り返して農地の除染をすすめ米作りを再開、仲間たちと全袋検査を行い、福島の米の安全性を実証している。そして、放置された農地にソーラーパネルを設置し、太陽光発電での収入を復興までの「つなぎの事業」として実現化している。
相馬市松川浦にある旅館「かんのや」に到着し、「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団長の中島孝さんの話を伺った。地元で食料品店(魚屋)を営む中島さん。原発事故後も相馬に残り、「町の食糧基地」としてごはんを炊き、総菜をつくって提供した。豊かな漁場だった海での漁業は行われなくなり(現在6種類の魚の試験操業が行われている)、中島さんのお店では地元産の魚を売ることはできなくなった。流通経費が上がり、経営は厳しくなったがそれに賠償は反映されない。「原発の廃炉を含めた『原状回復』を求めている。反原発のために裁判していると言っていい。そのためには地域で白い目でみられようと平気になった」「『声を上げなかった』という事実を後に残したくない」「責められるは『構造』。金の廻りの不均等という『構造』を一方でつくっておいて、貧しいところへ原発や基地をもってくる。沖縄の辺野古と福島は同じ構造なんです」。そして最後に「主権者意識を育てる教育をしてほしい」と、重い宿題を投げかけられた。
日程2日目は、津波の被害にあった浪江町と南相馬市小高区を訪ねた。
津波の被害がいまだに生々しい請戸地区。漁港町だった面影はほとんどなく、塩害で立ち枯れた樹木、津波でくちゃくちゃに潰された車のがれき、家屋の残骸が広い大地に点在していた。請戸小学校の校舎は、津波の被害の恐ろしさを直に伝えてくれる記憶遺産だった。衝撃だった。講堂の床が大きくたわみ陥没していた。残された子どもたちのシューズや絵の具箱、黒板の文字…2階の窓からは第一原発の煙突がうっすらと見えた。津波の日、管理職の判断で子どもたちを保護者に引き渡さず、全児童が避難し無事だったと聞いた。黒板には請戸の子どもたちの近況を伝え合うメッセージがところどころに残されていた。
殺処分に抵抗し、被爆した牛を飼育し続ける「希望の牧場」吉沢正巳さん。もはや「家畜」でもなくなった被爆牛を飼い続けること、絶望だけど「希望」の旗を掲げ続けることは、やはり「命の尊厳」と「誇り」の問題だと感じた。今回の「福島のたび」でずっと問われ続けたことだ。吉沢さんは「3.11はまだ終わっていない。みんなでしょいましょう。この『原発の時代』を乗り越えることが人生のテーマ」と熱く心をこめて語ってくださった。
富山に帰り、しばらく周りの風景に異和感を感じた。ふっと目の前に、無人となった福島の街が在るような感覚がしばらく続いた。この旅で受け取ったことはあまりに多く、重いことばかりだったが、本当に行って良かったと思っている。福島へ行き、その空気に触れ、人の話を聞かなければ、学べないことばかりだった。新聞やテレビのニュースでの情報がリアルなものとして感じられるようになった。他人事ではない。「主権者教育」という宿題は、まず私たち自身が「主権者」として「考え、行動する」ことから始めなければ、と感じている。(写真は松川浦の朝日です)。(T・Mさん)
福島へのたびを終えて
メディア報道による福島の現状などは見ていたが、正直、自分の気持ちには素直には入ってこなかった。「現地に行って、福島の現状をこの目で確かめること」は公害問題を考える上で絶対に必要なことである。3月14日、15日の「福島へのたび」は自分自身の考え・気持ちを整理する上で絶好の機会となった。
実際に南相馬市、浪江町、飯舘村の震災後の被災状況、居住制限区域などを視察し、人がいない町の「あまりの静寂さ」に恐怖感すら感じた。なかでも請戸小学校は3月11日午後3時37分頃からまさに時間が止まった状態であり、廃墟となった教室のベランダから見た福島第1原発はとても印象に残った。「絶対に安全である」と子どもたちに言い続けられてきた神話がもろくも崩壊する。信頼とはいとも簡単に崩れていくものか。教訓を語り継ぐ、記憶の風化を防ぐという意味でも広島の原爆ドーム同様に「遺産」として残して欲しい。
また、町のあちこちで放置されている除染作業で出たゴミを詰めたフレコンバック。行き先が中々決まらないそうである。原発は事故を起こさなくても膨大な量の核のゴミが発生する。ゴミ問題も曖昧なまま再稼働を進めるのは一体どういうことだろうか。その除染作業も家の周囲10mなど見えるところばかりで75%を占める山林はほとんど手つかずという状況である。全国へ散らばっている12万人の避難者の悲鳴が聞こえてくるような、先の見えない絶望感すら感じた。
「福島へのたび」を通して多くの人と話をしたが福島原発訴訟の団長中島さんの話が特に印象に残った。話を聞くと、これは人災ではなく、政府・東電による公害だとあらためて感じた。また、住民に支払われる補償金の格差が大きく、住民間の分断が進み、共通の土台に立てないこと。これもお金が生み出す新たな二次災害とも言える公害であろう。団長自身も「早く忘れたいのに何をやっているのか。お前みたいなやつがいるから復興が進まないのだ。」と地元民から白い目で見られていると聞き、まさに、差別と偏見が渦巻いたイタイイタイ病の歴史と同じであり、暮らしそのもの、生きる希望をも奪ったという点で戦後最悪の公害だと感じた。
福島原発訴訟は「人間のいのちの尊厳を守り、暮らしを取り戻す裁判」であり、四大公害裁判以上の戦後最大の公害裁判となるに違いない。われわれに求められるのは福島の人々への同情ではなく、一緒に闘うという連帯への意志と行動であろう。(M・Kさん)
福島で学んだことを伝えたい
福島を訪れたのは、この「福島へのたび」で二度目になります。前回は、二年前の秋でした。浪江町の、津波でさらわれた一面の平地のいたるところに、セイタカアワダチソウの黄色が広がっていたのを覚えています。それから二年が経ちましたが、かつて住宅地だったという海まで見通せる平地は、現在も変わらないままです。ただ、汚染土を詰め込んだ黒い袋が、大量に整然と並べられている景色は、以前は見られなかったものでした。
この厳しい現実を前に、福島の人々は、それぞれの立場でたたかっています。ガイドとして福島の実態を伝えようとする大貫先生、安全な農作物を生産するとともに新たな農業の取り組みに挑戦する「野馬土」の方々、四千名の原告団と百名の弁護団とともに「地域を返せ、生業を返せ」原発訴訟をたたかう中島さん、「希望の牧場」で殺処分から牛を守り、今も飼育し続ける吉沢さん。どの方々の言葉にも、厳しい現実に向き合う意志と知性を感じました。
福島の人々の言葉を聞くうちに、私自身の認識が大きく変わった点があります。それは、福島の原発事故における、たたかいの対象についてです。私は普段メディアを通して、福島第一原子力発電所の画像や動画を見ています。すると、そこで働いている東電の方々に責任があるように思えてくるのです。しかし、福島の人々のたたかい方からすると、それは大きな誤りでした。つまり、福島第一原子力発電所の職員は、同じ福島で働く仲間である。たたかうべき相手は国と東京電力の本社であり、福島県の人々を分断させてはならない。そしてその方法と目的は、裁判を通して国に法律を整備させ、すべての被災者を救済することである、ということです。
富山に帰ってきて、うれしかったことがあります。それは、分会の組合員をはじめ、何人もの先生方から福島の様子を尋ねられたことです。また、早速授業で福島の画像を見せて話をしたところ、やはり生徒たちは真剣な眼差しで写真に見入っていました。今後も「福島のたび」で学んだことを、様々な機会で発信していきたいと思っています。(K・Kさん)
福島のたびに参加して
福島へのたびに参加した。現地で案内された高校教諭で福島県高教組の大貫さん、「地域を返せ、生業を返せ」原発訴訟団長の中島さん、「希望の牧場」代表の吉澤さんのお話を聞かせてもらい、とてつもなく残酷な現実を知らされた。どうしようもない環境で、でも生きていかなければならない状況で生活している悲しさや悔しさや苦しさ、国や東京電力へのとこしえに終わることがないであろう怒りに、絶対的な凜とした感情に圧倒された。厳しい現実に晒されている者でしか語れないであろう言葉に圧倒された。
決して諦めたわけではなく、かといって望みが持てるわけでもない現実からの「声」を聞いたことで、私は、被災地のことを忘れない、被災地のことを想う、被災地のために何かする、そういったことは、帰るところがありふつうに生活している被災していない者がする、自己満足な行動でしかないと寂しく思ったのである。むしろ、彼らにとっておこがましいことだとさえ感じてしまったのである。だから、せめてきちんと見守ろうと思った。そして、もし、「復興」というものがなされたのなら、静かに喜びをかみしめたいと思ったのである。
農業に関わる者にとって、イネの箱苗用の床土やもみすりした玄米を、まとめて運ぶときに使用する1t用フレキシブルコンテナに、汚染し除染するために剥離された土地や農地の土が、それに詰め込まれ堆く積み上げられている様は、絶望の丘を連想し強く悲しく、静かに流涙するだけだった。
数年後の次回があれば、また「きちんと」見に行きたい。(H・Nさん)
福島のたびに参加して
私の友人は震災が起きた当時仙台で暮らしており被災しました。友人から避難の様子やどんな気持ちだったかを聞きました。そして、震災のことを忘れないでほしいと言われました。
私は普段理科の教員として授業で地震や放射線、核反応について教える際、友人から聞いた話をしてきましたが、やはり実際に一度は見ておかなければならないと思い、案内を見て参加を決意しました。
このたびではこれまで知らなかった福島の現実を知ることができました。仮設住宅での生活や人が戻ってこない小学校、立ち入りが制限され人の気配がない町等、ショッキングなことばかりでした。特に印象に残っているのは、津波の被害に遭った請戸小学校の姿です。体育館には卒業式の準備がされたままだったり、1階の壁が流されて柱だけになっていたりしているのを見て津波の恐ろしさを知り、また請戸小学校では児童の被害が全くなかったことを聞いて驚きました。生業訴訟の中島さんからはダメになった漁業や東電の補償等について話を伺いました。福島では原発により住むところや仕事を奪われた人が多いのに、原発に対して賛否両論であり気持ちが1つではないことにショックを受けました。
多くの人々が苦しみ、震災関連死者数が増えていっている中で、福島の今についてほとんど報道されておらず、多くの日本人がこの悲惨な状況について知らないことはとてもおかしいと感じています。これからは今回の旅で知った知識と感じた気持ちを大切にして、東日本大震災を風化させないように生徒に伝えていきたいと強く思いました。そして、生徒が福島やこれからの日本について考えるきっかけをつくっていこうと思いました。(Y・Kさん)
福島に学び、感じる
2度目の福島行き。学び、感じるところが大の旅行だった。
一番感じたことは「故郷喪失の悲哀」だった。このような哀しみを福島の人々に一方的に与える「権利」や「権力」を、いったい、誰が持つことができるだろうか。不条理の極みだ。
私は、「3・11」以後、「原発責任」というテーマを考え続けている。「誰かが繁栄するために、誰かを犠牲にする」という構造を許すことは間違っている。しかし、私を含めた多くの国民は、それを許し続けてきた。そこに私たちの大きな「責任」がある。だからこそ、私は、「原発は間違っている」と訴え続けたい。
今回の旅で、故郷の意味を学び、それを失う哀しみを感じることができた。この学びを、今後の私の人生でいかさねば、この旅の意味がないだろう。たとえ非力であっても、私は、私の「責任」を果たし続けたい。(T・Tさん)
福島へ行って考えたこと
あれからもう4年が経つというのに、現地の時は止まったままだ。地震と津波で壊れたままの請戸小学校。居住制限区域に指定され、誰もいない浪江町の街中。全村避難の飯舘村から逃れた住民が暮らす仮設住宅などなど。現場に立てば事の重大さに気づくはずなのに、「風化」が進んだというよりも、無意識の内に忘れ去ろうとしていた自分だった。
現地で闘い続ける人々に出会えたことも印象深い。私たちを案内してくださった福島県立高教組の大貫昭子さん。3月末で定年を迎えられるという。「生業を返せ、地域を返せ!」原発訴訟団の中島孝さん。そして、希望の牧場・ふくしまの吉沢正巳さん。原発事故の生き証人・経済価値のなくなった300頭の肉牛を生かし続けている。棄畜・棄民という事故後の国や社会のあり方が問われている。
「収束という言葉を使う状況にはない」。かつて「アンダー・コントロール」と豪語した安倍首相の国会答弁である。しかし、原発の再稼働を求める経済・産業界の勢いは増すばかりだ。政権にとって何が最優先なのだろうか。福島から9000㎞も離れたドイツでさえ、日本の事故を教訓に脱原発にシフトしたというのに。そもそも、原子力の「平和利用」は可能なのか。いろいろなことを根本から考えさせられた福島への旅であった。(S・Iさん)
福島のたびに参加して
震災時に勤務していた高校は、浪江町からの避難生徒を1人受け入れましたが、4年経って今回ようやく浪江町の実情を、自分の眼で確認することが出来ました。原発の再稼働、新設の議論はいろんな切り口から行われていますが、どうも結論ありきのようです。しかし、それらの議論はこのゴーストタウン化した浪江町を肌で感じた方々でして欲しいものです。いかなる立場にある人であっても、血の通った議論を経なければ、近い将来また同じ過ちを繰り返すでしょう。最近、志賀原発1号炉の下にある断層が動くか、動かないかで見解が分かれているようですが、そもそも見解が分かれるようなところに建設せざるを得なかった時点で、素人目にも原発行政の矛盾が露見しています。我々教員も「血の通った議論」ができるよう、今回の経験を仲間に伝え、今後の福島の状況にも注意を払っていきましょう。(T・Kさん)
福島へのたびに参加して
車窓から見える景色は普通の山間の農村地帯という感じで、地震や津波による被害が見られないというのに、放射能汚染で全村避難が行われているという光景は理解しがたいものがありました。仮設住宅を訪れ、避難してきておられる住民の方にお話を伺いました。マスコミを通じて聞いている話とは違ったものでした。せまい仮設住宅の住居スペースを見せていただきましたが、心の安まる環境とは思えませんでした。また、地域や家族のコミュニティーも崩壊しているとのことでした。
地震と津波の被害が大きかった浪江町と南相馬の視察を行い、被害のすごさを間近に見ることができました。津波が押し寄せ校舎だけが残されている学校、信号機が点滅する無人の町、現地で見るもの聞くもの全てが想像を遙かに超えていました。原子力発電所事故の恐ろしさを真剣に考えさせられる視察になったと思います。自然災害は人間の力で何とか復校できるかもしれません。しかし、今回のような原発事故による人災事故は、その復校が難しいのではないかと思いました。
今回の視察でお会いした方々の話を聞く中で、何とか自分のふるさとを取り戻したいと奮闘されている方や福島の現況を多くの人に伝えたいと奮闘しておられる方と出会えたことが一番の収穫になりました。そして、現地を訪れたことのない方に、是非現地を見て、そして、話を聞いてほしいと思いました。「百聞は一見にしかず」と言います。(K・Nさん)
福島から伝えたいこと ~高校生のことばより~ (Y・Hさん)