2013年7月に福島を訪れました。震災から2年と4か月を経た時の福島の姿です。多くのことを伝えたいのでシリーズにして伝えます。
今回はその第1弾です。
日本の真実はどこに?
「原発推進か、脱原発か」3・11東日本大震災を機に、エネルギー政策は脱原発に向かうようにみえていました。世界各地でも脱原発への世論が一気に広まりました。しかし、未解決な問題が多いにもかかわらず再稼働の動きは活発化しています。なぜ大惨事が起きたこの国で、脱原発に向かわない現実があるのでしょうか。この不思議の国日本の真実はどこにあるのか、実際に見て、聞いて、感じることで理解したいと思い、飯館村、浪江町、相馬市、南相馬市などを訪れ、福島の現状や様々な人々の思いに触れました。
福島って?
まず福島の地理を理解するため、福島県の地図をみてみましょう。
浜通りは「電源地帯」
浜通りは、「電源地帯」として原子力発電所や火力発電所が多数建設されています。
福島第1原子力発電所(1号機~4号機)は双葉郡大熊町に、福島第2原子力発電所(1号機~4号機)は双葉郡楢葉町に位置しています。
3.11の震災で恐ろしい原発事故が発生。一方、火力発電所は何の問題もなく安全に動いているとのこと。福島の人々に供給する電源は全く安全であるのに、首都圏に送るための電源が福島の人々の多くを苦しめています。
「今、日本人が享受している便利さは、一部の非常に苦しんでいる人々の犠牲のうえに成り立っているという現実」をしっかり理解すべきでしょう。
原発10~20km圏内
原発から10~20km圏内にある地区を訪ねました。
ここは、地震で被害を受け、その後津波が押し寄せ、さらに原発が爆発するという、地震・津波・原発事故の三重苦に苦しんだ地区です。
今もなお津波によるがれきが残されており、津波による被害の怖さを今もなお伝えています。(地図上の色分けは、放射能汚染の状況を示しています)
原発事故の爆発は、津波で遭難し助けを求めていた人の命も奪いました。
原発事故のため、それまで続けられていた捜索は突然打ち切られました。捜索再開は事故後1か月たってからでした。動けなくなって助けを求めていた様子で亡くなられていた方も多く、原発事故はここでも多くの犠牲者を出していたのでした。がれきの散乱したこの地に訪れて、手を合わせ祈らずにはいられませんでした。
がれきの向うに原発の建物が見えていました。
請戸小学校を訪ねて
浪江町請戸は、津波により壊滅した地区です。その地区の海岸近くに位置していた請戸小学校を訪ねました。
先生方の的確な判断と行動のおかげで、在校生77名全員の命が守られたとのこと。
校舎に取り付けられている時計は、震災時の時間でとまったままです。
校舎の1階部分は津波で破壊されていました。
入口にあった町の地図
震災の頃、卒業式の準備がなされていたようで、体育館はそのままの状態でした。
教室は震災時の状況のままでした。
請戸小学校の教室のベランダから
南相馬市小高地区や浪江町を訪ねて
原発事故の影響で、地区ごとで避難状況が決められています。これは2013年4月時点のものです。
帰宅困難区域とされている、南相馬市小高地区や浪江町を訪れました。
町はそこにあるのに、時はある時から止まったようです。
街には人の気配はなく、震災時に壊れた建物がそのままになっていました。
新聞販売店では・・・
3月12日に配達される予定だった新聞が大量に残っていました。
信号が点滅しているだけの通り
小高駅周辺
あちこちの駐輪所では、多くの自転車が持ち主が取りに来てくれることを待ち続けているのです。
旅人:富山高教組 書記次長 松井恵美子