飯館村を訪れました。
私たちは、飯館村長泥の鴫原良友さんから説明をしていただきました。
飯館村は、原発事故が起きる以前は、本当に美しい村でした。(「日本で最も美しい村」連合に加盟)
飯館村の人がめざした「までい」なくらし
“人と地域のつながりを「までい」に”
“からだと大地を「までい」に”
“家族の絆を「までい」に”
“食と農を「までい」に”
“人づくりを「までい」に”
(福島の方言で「までい」には、「手間隙を惜しまず」
「丁寧に」「心をこめて」「じっくり」という意味があるそうです。)
飯館村の人々の暮らしには、日本が古来大切にしてきたものが確かに存在していました。
豊かな自然、その自然を守り育て、農的な暮らしを実践するなど
村民のからだと大地の健康を大切にする循環型の仕組みがあったのです。
“までい”な暮らしを大切にし、
家族・地域の人々とのつながりが大切にされていました。
飯館村は、福島原子力発電所から北西方向50km離れたところに位置し、原発事故とは無縁とも思われていました。
原発建設時、原発から30km圏外であり、絶対に安全な地区とされ、原発建設に伴う財政的措置がなされるわけではありませんでした。
3月11日午後2時46分
東北地方太平洋沖地震発生
3月11午後2時23分
国が東京電力福島第1原子力発電所から3km以内の住民に避難指示。
3月12日午前5時44分
国が避難指示範囲を原発から10km以内に拡大。
3月12日午後3時36分
東京電力福島第一原発1号機が水素爆発し、建屋が大破。
3月12日午後6時25分
国が避難指示範囲を原発から半径20km以内に拡大。
飯館村に、村外から多くの人が避難し、避難所を設置し受け入れる。
3月14日午前11時頃
東京電力福島第一原発3号機が水素爆発し、建屋が大破。
※この時点での飯館村の放射線数値
→1時間当たり0.09マイクロシーベルト
通常の値です。(富山での平均程度)
3月15日午前6時頃
東京電力福島第一原発4号機で壁が破損
3月15日午前11時頃
国が原発から30km圏内を屋内退避区域に指定
3月15日正午頃
放射線量の数値が急上昇。
3月15日午後6時頃
飯館村の放射線量
→44.7マイクロシーベルトを記録。
※その間、炊き出しでおにぎり600個
3月16日
放射線量が49マイクロシーベルトを記録。
※その間、炊き出しでおにぎり600個
3月17日
95.1マイクロシーベルトある中長泥住民は炊き出しをしていました。
3月19~20日
栃木県鹿沼市へ避難
3月25日
リスクアドバイザー高村昇長崎大学院教授による講演会開催。 村人300人が集まり耳を傾けた。村民が「これからも安心して村で暮らしていけるのか?」と質問したのに対して高村教授は「医学的には注意事項を守れば健康に害なく村で生活していけます」と答えています。(飯舘村広報紙・3月30日発行より)
3月30日
国際原子力機関(IAEA)が、村内の土壌からIAEAが定める避難指示基準の約2倍の放射性物質を検出したと発表。
4月11日
国が原発から20km圏外でも、年間積算放射線量が20ミリシーベルトを超える区域を新たに「計画的避難区域に設定する」と発表しました。
4月22日
ようやく、国が飯館村全体を「計画的避難区域に指定」と発表。村は全村避難に向けて動き出すことになりました。事故から1か月以上もの時間が流れています。
「高い放射能であるにもかかわらず、自宅待機を続けた住民、本当に危険な状況において、様々な間違った行動を政府がとらなければ、我々は安全を考えて早く非難することができたのに・・・」と、怒りに満ちて鴫原さんは語って下さりました。